【二十日余りバス】 1/4
作者: フォルテ・だだん   2010年09月13日(月) 20時49分17秒公開   ID:ljYRrA1fhGE
 彼の名は癸酉臥待みずのとりふしまち。三十を一つと半分ほど過ぎた年齢である。
 煩悩百八つが心を掻き乱し、彼は苦衷にいた。
 星が闇を切り裂いている。あちらもこちらも星ばかり。
 欠けた月の下、臥待ふしまちは自分で何をしているのかよく分からなかった。否、それどころか臥待は何も考えていなかった。
 彼のすぐ横には、錆びたバス停標識がどなたに蹴飛ばされたのか、斜めに折れ曲がったまま立っている。住宅の群れで、就中美しいわけでもない橋の上にバス停はある。歩道と自動車道が細い白線一本で隔たっていただけであったが、この時間帯は人も自動車も姿を現すことは滅多に無い。だから、臥待が存在することは珍重すべき事実だ。
 橋の下、川の水がさらさらと流れる音が聞こえる。
 臥待は橋から身を乗り出して、河童でも出てきやしないかと下を覗き込んだ。しかし、河童どころか、川さえも暗闇に呑まれてしまっている。これでは、何も見えない。
 そういえば、橙色の外灯がぽつんっと立っているだけで、灯りはほとんど無い。馬鹿なことをしてしまったと思い、早々に臥待は顔を上げて、また道路の方へ向き直った。
 遠くの方で、タイヤが道路を滑走する音があった。
 静寂の中なので、それが大型車だということは明白だった。
 外灯にちらちらと照らされて、臥待の右手の方から、やかましくバスがやってくる。重そうな巨体を前へ前へと進ませて、まるで息を荒立てて喘いでいるかのように、しゅーしゅーと停車した。汚れたバスのライトが臥待を、夜の闇から浮かび上がらせる。
 バスには緻密に人々が詰め込まれていた。
 臥待はそんな億劫そうなバスに、しぶしぶ乗り込むことにする。

「お客さん。どちらまで?」

 運転士がプレートを胸の前に持って、駅の名前と金額を指差している。
 臥待はどこにも帰趨が無く、どこまで行こうかと一瞬迷った。しかし、結局は終点まで、と言った。四百七円だった。
 バスは一切の合図やかけ声も無しに、すぐさま揺れ始めた。
 深夜の道をゆっくりゆっくり走って行く。
 臥待は、同じような無表情で吊り革に掴まる客を押しのけ、やっとこさ最後部座席に着いた。どうしてか、皆は扉の前に集まるようだ。幸いにも、四つだけ空席が残っている。
 隣も、向かい側も、斜め前も誰も座らない窓側の席。まるで、この座席を皆一様に避けているかのようだった。しかし、彼は黙って、座席へ腰掛け、深く背もたれに沈み込んだ。
 窓には、癸酉臥待の陰気な様子が映っていた。その茫然自失さと言ったら、それは無かった。頭のてっぺんは白んでいたし、目の下は腫れ、唇はだらりと半開きだった。その上、この師走の極寒で、彼はシャツの上から薄いコートを着ていただけだったのである。だが、臥待はそんなことには更々興味は無く、何故自分はこんなに草臥れてばかりいるのかと少しばかり糾弾していた所だった。何か、自身の胸襟で酷くやっかいなことに頭を抱えていた気もするが、滑稽なほど、思い出せない。
 丁度、バスは山を登り始め、辺りは霧に隠れて見えなくなった。それから、勾配の酷い所で次のバス停に停まった。停止している間、論理も情念も捨てて、臥待はただ尻を暖めていた。
 再びエンジンが掛かり、バスが動き出す。
 すると、少女が人の山を掻き分け、こちらにやってきた。そして、癸酉臥待の正面に向かい合うように座った。
 少女と言っても、まだやっと幼稚園を出たくらいの歳だろう。痩せた体躯に、そばかすの散らばった顔で、鼻の上に眼鏡を乗っけていた。およそ、冬には似つかわしくない、半そでのシャツにスカート姿。
 話しかけてみた。

「ねえ、君、小学生?」

「うん。三年生」

 女の子は、怪訝そうにこちらを凝視した。
 子供は最初のガードが堅い。もう少し、色々追究してみよう。

「何しにきたの?」と臥待。

「分かんない」

「分からないの・・・・?」

 そういえば、自分もそうだったことに、一テンポ遅れて気付く癸酉臥待。

「そっか・・・・。でも、一人で大丈夫なの?」

 それは大丈夫、と女の子が頷く。女の子は酷く青白い顔をして、具合は良くなさそうだ。

「おじさん」

 女の子は涙の膜で薄っすら覆われた瞳をこちらに向け、それから――にやぁっと笑った。
 彼女は、埋没させていた心の中を、自分の表情を歪曲させることによって、表に出した。心が打ち解けるとか、そういう類のものではない。とても女の子は、ただ驚くほど諧謔的に、顔を歪に笑わせたのだ。
 臥待は呆然となって、彼女に話しかけたことを後悔した。今更ながら。

「うふふ。楽しいな。おじさん、楽しいね」

「・・・・・それはよかったな」

「私は旅行が好きなんだ」

「へえ、そう」

「うん。夏休みと冬休みに一度ずつ、パパとママが旅行に連れてってくれるの」女
の子は歯を剥き出して微笑んだ。「私が行ったことあるのは、京都でしょ。沖縄でしょ。長野でしょ。栃木でしょ。あとね、外国にも行ったよ。チェコとオーストリアに」

 臥待は黙って首肯した。

「近くへ行くこともあるんだよ。パパはキャンプが大好きで、キャンピングカーを買いたいんだけど、ママが駄目って言うんだ」

 ちくりと心が痛んだ。杞憂であったが。

「残念だけど、僕はあんまりキャンプが好きじゃないんだよ」臥待は言った。

 女の子はやっと子供らしくなり、むっとしたように口を尖がらせた。どうしてかと、腹を立てながら臥待を問い詰める。
 バスは白い闇の中を、少しずつ滑走して行く。車内もずいぶんと肌寒く、臥待の吐く息は白い。

「何がどうして。どうしてもさ。どうしても、僕は森の中で楽しくバーベキューやったり、川で遊んだりするのが、許せないんだ」

 生粋な少女の眼差しが、癸酉臥待を突き刺していた。臥待は気まずくなって、下を向く。それでも小さな声で言う。

「キャンピングカーなんて持っての外だね。車ん中で、寝たり食べたりするだけでぞっとするよ」

「おじさんは嫌いでも、私とパパとママは好きなの」

「そうかい」

「私は、キャンプは好きだけど、おじさんは嫌いだよ。べーっだ!」血色の悪い顔に、赤い舌がよく映えた。「私降りちゃうんもんね。おじさんのせいだからね」

 女の子は、まだ停車していないそばから、座席を立ち上がり、さっさと臥待に背を向けてしまった。やがて、バスは停留所に停まり、女の子は霧の中へ消えて行った。
 臥待は肩をすくめただけだった。
 次に、老人が隣へ腰掛けてきた。口をもごもごさせたお爺さんで、忘れっぽい表情でずっと宙を見つめている。老人に続いて真正面には、スーツにカラシ色のネクタイ姿の男性が座った。臥待はびっくりして、素っ頓狂な声を上げた。

「先生! 雨水うすい先生ですよね!」

 男性は腕を組んで、ちらっと臥待の方を一瞥した。

「いやー、ちっともお変わりになっていませんね」

「・・・・」男性は腕を組んだまま、無表情で、「失礼だが、私はあなたの顔に憶えは無い」

 癸酉臥待は、我が耳を疑った。確かに、目の前にいるのは雨水伊那助うすいいなすけ教諭。自分の高校時代の恩師だが、自分はそれほどに印象の無い生徒だったか。

「えーっと、あなたのクラスにいました。癸酉臥待です」

 やはり、雨水教諭は首をかしげるばかり。無表情で、口を拭っている様子も無い。
 臥待は自分が勘違いをしたのか。それとも、教諭とそっくりの双子の弟なのか。だが、教諭の露骨に歯を浮かせる、その表情は彼のそれに間違いない。

「確かに、私は雨水伊那助だ。高校の教師をしている」

「で、ですよね・・・・・・」興奮した臥待の息だけが白い。

「しかし、癸酉臥待などという生徒を受け持った記憶は一切無い。君の勘違いじゃないか?」

「・・・・・・・・・・・」

 雨水教諭には、どの生徒よりもお世話になった自信がある。否、それは主観的な自意識の過剰だったのかもしれない。とにかく、教諭は臥待のことを何一つ知らない。

「僕が勘違いしていたとしましょう。ですが、僕は、とてもあなたに会えて嬉しい。例え、あなたが僕の顔を忘れてしまったとしても」

「大変熱心な、私のファンのようだな。君のような人が、私の記憶に無くて残念だよ」

 教諭は昔から皮肉屋だったが、同時にユーモラスな性格をしていた。

「はい、そうですね」臥待は教諭が自分を知っていようが、いなかろうが、そんなことに構っていなかった。「雨水先生は、まだ教師をやっていらっしゃるんですか?」

「ん? まあな。社会科教師をやっている。・・・不思議だな。初めて会った君に、職業を言い当てられるなんて」雨水教諭は青白い顔を、ぽりぽりと掻く。「せっかくだ。私のファンなら、私が教師になった理由ぐらい尋ねてみたらどうだ?」

 ええ、せっかくですからね、と臥待は頷いた。数年経っても、雨水教諭の調子はちっとも変わっていない。懐かしさに胸躍る。

「・・・・昔は人に物を教えることだけが好きだったんだ。それで、相手が理解すると、自分の力みたいに誇らしくなるだろう? それで私は調子に乗ってしまったのだな。教員免許を取った後、しばらくは、塾の講師をやっていた。中学生の受験戦争に一役買っていたんだ。あの頃は、教師という職が単なるサービス業に見えて、腕の立つ者だけが生き残れるとばかり思っていたんだが。私はその勘違いに、もう一つ勘違いを重ねてしまった」

 バス停に停まったが、誰も乗ってこない。雨水教諭の話は続く。

「自分に自信を付けてしまい、塾を辞めて、普通の公務員として高校で働き始めた。君より少し若かった頃かな。学校と塾の教育のレベルの差に愕然としていてね。だから、公立の高校で高度な教育を施そうと思った」雨水教諭は遠くを見るような目で、「最初はまあよかった。しかし、徐々に彼らは私から離れていった。手に取るように分かったよ。特に担任なんかやってると、自分がいかに生徒に嫌われているかひしひしと身に染みたよ。私は何がいけなかったのかと、自問自答した。世の中は私が思っていたより、ずっとユーモラスだったな。そんなシニカルなことを思っている最中、どんどん生徒達は私から乖離していった。私は、最強の合理主義だ。現実的で尚且つ頭が良すぎる」

「それ、自分を褒めてますよ」

「ああ、そりゃそうだ。自分くらい褒めてやらなきゃ、誰も褒めてなんかくれないさ」

 少し、閑話休題をしつつ、教諭はまた話題の軌道を修正した。

「世の中は、皆、私のような人間ばかりだと思っていたんだ。だが、皆そこまで賢いわけじゃなかった。運動ができる奴。音楽ができる奴。絵が上手い奴。面白い奴。皆が一様に、私の絶対的勉学を求めているわけではなかった。だから、私が全ての生徒の知能数を平等に引き上げることなんて、到底無理な話だったのだ。実力ばかりのつまらない世界に、生徒たちは見向きもしなかったのだ。予備校は、本物の勉強をしにきている奴らの集まりだったってわけさ。
 いつしか、私は生徒達に何も追及しなくなった。理想郷だけを掲げても、それはあくまで理想郷だったのさ。現実的な私には、あまりに不釣合いだった。その代わり、とにかく生徒達自身と向き合うようになった。実は、ここだけの話、運動やってる奴ほど、心が脆かったりするんだ。文化部の奴らの方がよっぽど、自分自身と見つめ合ってて強い。だが、その個性を手中に収めて、操縦するのが私の役目のような気がするんだ」

「結局、先生はパイロットになったんですか?」

「ん? まあ、君がそう言うなら、そういうことにしてやっても良い。はははっ! 癸酉くんだったが? 君は面白い奴だな」

 昔、そんなことを一度雨水先生に言われたことがある。今思い出した。思い出しデジャヴ。
 臥待は懐かしさで、胸が熱くなった。と同時に、本当に自分のことを忘れてしまったのかと思うと、哀悼するみたいに悲しくなった。

「理想って何なんでしょうね」と臥待。

「まあでもどうかな。賢い奴は賢いし。実は、理想と現実の間に、そこまで大差は無いのかもしれないな。人それぞれかもしれんが」

 だがそれでも、雨水教諭は満足しているということだ。若かりし頃に自分の描いていた理想と、今の現実が例え大きく喰い違っていたとしても、現在の自分が満たされていればそれで良いのだ。敵は本能寺にあり。真の目的は自分さえも知らない他にあるということかもしれない。
 しかし、癸酉臥待はどうだ。どうしたことか、当初の目的も希望さえも何があったのか思い出せずにいる。僅少の間だけとはいえ、雨水教諭に教わった身としては、そんなことは許されないはずなのではないか。

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