【二十日余りバス】 3/4
作者: フォルテ・だだん   2010年09月13日(月) 21時06分31秒公開   ID:ljYRrA1fhGE

 老人の話の最中に、臥待の正面には女性が腰を下ろしていた。彼女は、純白の白衣を着て、優雅に脚を組んでいる。ショートカットの髪に、気の強そうな吊り目。顔はやはり酷く青白い。静かに息をして、瞑想している。
 そういえば、あちらこちらを見回してみると、顔が青い者ばかりで、血の気が無い。皆を舌を向いて、臥待と目を合わせようとはしない。ただ、どうも、一人一人の顔によく視点をずらしてみると、全員が全員、臥待とは顔見知りだった。それも永眠した者達、亡くなった人達である。今更、状況把握しても、車内が寄り一層寒くなるだけだった。
 なるほど。臥待の息だけが白かったのは、皆が生きていなかったからなのか。臥待は、これから天国か地獄かも分からぬあの世へ逝こうとしている最中なのかもしれない。ならば、目の前に死んだはずの姉がいても、おかしい話ではない。
 姉は、ぱくりと目を開けた。こちらを真っ直ぐ見つめて、淡々と話し始める。

「よく考えてみると、今まで自分がやってきたことの目的というのは、単なるエゴイズムに他ならなかった。いつも人の顔色ばかり窺っていた私に対し、いつもあんたは自分自身を真っ直ぐ見ていたんだ」

「姉さん。・・・・僕のことが分かるの?」臥待は訊いた。

「私はあんたの名前ぐらい覚えてるよ。当たり前でしょう? 自分の弟ですもの」

 そうなら、これが自分の姉の癸酉小望であり、そう仮定して、結果そうであったなら、彼女がこうなった理由を是非とも聞きたい。
 癸酉小望みずのとりこもち。臥待の姉。彼女は一昨年の秋に、自ら命を絶った。世の中を恨んだのか、臥待を憎んだのか。どちらにしても、この姉弟の間柄、愛別離苦という言葉は無縁だ。ただ、臥待は彼女がどうして自決したのか知りたかった。それだけだった。

「姉さん。どうして姉さんは死んだんだ?」

 癸酉小望は、すっと腕を上げて、臥待の顔を突き刺すように指差した。

「全部あんたのせいよ」

 姉は、相変わらず作り物のような無表情のままで、更に続けた。

「良い女の子がいるって言ったでしょ? 私の大学の後輩――庚ちゃん。それで、まあ、軽い気持ちであんたに紹介したら、うまーくくっついたわね。小学校の同級生だったんですってね。そう。ほら、やっぱり私の行動はいつも正しいのよ」

「・・・・・・」

「私より四つ下なのに、どうしてあんたの方が早く結婚したのかしらね。うーん。パパとママがゆっくりで良いって言ったからなのよね。私も結婚なんて、とか思ってたし。私は、いつもパパとママの言うとおりに生きてきたから。パパとママが褒めてくれさえすれば何でも良かった。クラスの子が勉強教えてって言ってくれるのが嬉しかった」

 ぼそぼそぼそぼそ。姉らしくない、小さな声で呟いていた。

「姉さんは、いつも僕のことを馬鹿にしてた」臥待は言った。

「ええそうよ。野球馬鹿の無能な弟なんて、私の弟に相応しくないと思ってた。本当はパパとママに言われたから、仕方なく、仲の良い、面倒見が良い、そんなふりをしていただけなの。家を出たあんたと住んであげたのも、パパがどうしてもって私に言ったからよ。まあ、でも幸いあんたは一年半ぐらいで出て行ったけどね」

 姉が何を言いたがっているのか、臥待にはまったく予想できなかった。確かに、そんな日もあった。だが、自分は姉に迷惑をかけてきた憶えはない。

「あんたが出て行ってから、私は何故かあんたが少し羨ましく思えた。私が医者になって、働き始めた頃に、あんたと庚ちゃんは結婚したのよね。懐かしいわ。娘も生まれたんでしょう? パパとママにも言わず、とっとと突っ走っちゃって。むか
つくけど、良いわよね。その方が」

 非常に、カタルシスな言い方だった。自分の不運さに恍惚し、そして臥待への嫌悪でいっぱいだった。臥待が、理不尽さを強く感じずにはいられないほどに。

「知ったふうなことを言うな」

「それもそうね。だけどよく考えて見なさい。私はいつもいつもいつもいつもいつもパパとママの言うとおりにした。私の行動はいつどんな時でも正しかった。お人形さんみたいにただ動いていただけだったの。その反面、あんたは自由に振舞って、自分のやりたいことをやりたいだけやって、道を切り開いていった。土台無理があるのよ。あんたと私の幸せの差なんて埋まるはずがないの。ただつまらない毎日が私にはあって、それだけしか残っていなかった。正しいことだけしか残っていなかった。あんたを恨んで嫉妬して、壊して折って砕いて刺して轢いて歪めて殺してやりたかった。羨ましすぎる・・・・。それでも、私は医者だから、ただでさえ周りの人が死んでいく。申し訳ないのよ。あんな純粋で正しい人たちを治すのが、どんな行動も正しくない悪辣な私だなんて。おかしいのよ。パパとママにも相談したわ。それは若い故の苦悩だって。いずれ、自分自身をしっかり見つめられる時が来るんだって。――嘘。これ以上パパたちのせいで、私が虚無感を味わうのはうんざりだわ。そこから少しずつ私の頭はお馬鹿さんになってしまったの。病院で人が亡くなるのは、自分のせいだと思った。パパとママに育てられた汚い私に診察される患者さん。パパとママが用意したお見合いも全て断った。その間にも病気の患者さんが私の前に次々と現れる。やがては死ぬ。私がやっていることは全て無意味だったの」

「そんなことはない」

「私を治す目的なんて、パパとママにあった。患者さん一人一人のためじゃなかった。・・・・・・それが分かると、死ぬしかなかった」

「そんなことはない!」

 臥待はもう一度はっきり否定した。
 困惑したまま、目に涙を浮かべている姉は、馬鹿にしたようにこちらをちらっと一瞥した。

「あんたが私にそれを言うのは、とてもおかしなことじゃない?」

 バスは急斜面を登りきり、霧が晴れた場所を走り始めた。空気が透き通っていそうな、森林に囲まれた道路だった。ガードレールから緑が溢れんばかりに生い茂り、星空は先程よりも更に明媚になっていた。
 途中、カーブに差しかかり、バスが大きく揺れた。それを過ぎると、トンネルが見えてきた。中は目がちかちかする緋色の光で照らされている。バスはタイヤを転がし、すぐにトンネルの中へ突入した。
 すると、癸酉臥待はふいに席を立った。顔にはひんやりとした汗が滴り、全身はぶるぶると震えている。

「停めてくれ! トンネルだ! トンネルだ!」

 彼は必死になって叫ぶが、姉が低い声で嗜めただけだった。

「静かにしなさい。他の人に迷惑よ」

 臥待は呆然とし、腰をどすんと座席に下ろした。彼は上を向いて、ぶつぶつと独り言を言っている。
 上から石がごろごろ落ちてくるんだ。石じゃない。岩だ。ごろごろ。すごい音がして、大きな岩がのしかかる。怖い怖い。ごろごろごろごろごろごろごろごろ。落ちて来る落ちて来る堕ちて来る! 皆、皆大変になる・・・・・。
 彼がそんなことを呟いても、誰も何も言わなかった。ただ、皆一様に真っ直ぐ前を凝視していただけだった。
 バスがトンネルの中を意気揚々と走り続けると、臥待は頭を抱えて、子供のように丸くなった。両手で自分の目を塞ぐ。狂気に侵され、酷く怯えていた。
 しかし、彼がそのような状態になっているにも関わらず、バスは無神経にも、トンネルの中間地点で停車した。バス停があったのだ。

「・・・・・・・・・大丈夫ですか」

 誰かがバスに乗ってきて、その誰かが隣に座ったことを臥待は知った。臥待が顔を上げた途端、するりと彼の腕に女の手が絡まってきた。冷たい、じめっとした腕だった。すぐに分かった。
 ――妻の腕だった。
 臥待はすぐ隣に妻がいるにも関わらず、横に視線を向けることが叶わなかった。彼女と目を合わせることは、絶対に無理だった。

「あら、かのえちゃん」

 姉が、臥待の隣を見ながら、ひょうひょうと言った。

「久しぶりね。そいつと何してるのかしら?」

「はい。この人は、私の夫です」

 奥ゆかしい静かな受け答えをするそれこそ、まさに彼女だった。
 妻がいる。否、妻はもういない。

「にこにこしてどうしたの?」と小望。

「これから夫とずっと一緒かと思うと、すごく嬉しいんです。臥待さんも、楽しいでしょ・・・?」

「・・・ああ」

「久しぶりに娘を置いて、二人っきりなんです」

 ――娘。その単語がぼんやりと霞がかかった臥待の頭に反応する。そうだ娘だ。
 その最中でも、妻の癸酉庚は言葉を続けている。

「頭が割れて、脚も動かないし、不自由ですけど、臥待さんと行けるなら、私はどこへでも行きますので」

 臥待のコートに、彼女の血が滲んだ。庚は血だらけの手で、自分の腕を掴んでいる――。漠然と臥待は理解した。

「もっともっと山を登って、どこまでも行くんです」

 庚は明るい調子で言う。

「それでずっと二人きりで幸せに暮らすんです。誰よりも何よりもただ一番幸せになるんです」

「庚・・・・」

「彼は私と二人で暮らすことに決めたんです。だって彼は――、臥待さんは――、私が一番可愛いんですから」

 まだ深いトンネルを抜ける気配は無く、バスは揺れながら不謹慎にゆっくりと進んでいる。
 臥待は手元にあった野球帽に目をやり、すっと息を肺まで吸い込んだ。

「ああ、君は可愛い。僕は今まで君が世界で一番可愛かった」

 それは、きちんとした事実現実真実、そして誠実。しかし、口実でしかなかった。

「でも・・・・」

「うふふ」

 彼女は笑った。悪戯っぽく。

「知っていますよ。あなたにとって、私は二番目に可愛いんです。ちょっと意地悪してみただけでした。・・・・あーあ、残念でした。つれて行けることをちょっぴり期待したのになあ」

 絡んでいた腕がさっと解ける。彼女は動いたままの車内で立ち上がり、トンネルを抜けたところにあったバス停で下車した。
 背中が、後姿だけが、臥待には見えた。
 再びバスが動き出す。途端、しばらく沈黙を守っていた姉が口を開いた。

「庚ちゃん。死んじゃったの?」

「うん」

 ・・・・・。
■作者からのメッセージ
作者からのメッセージはありません。

■一覧に戻る ■感想を見る ■削除・編集